教えることの不可能性




ピアノのレッスンで、レッスン時間を結構使って師匠と議論になった。(笑)

まず楽譜というものの功罪。 楽譜自体は音楽ではなくて、音楽をつたえたり組織化するためのツールでしかないのに、楽譜を使うスキルに対する労力があまりにも大きいので楽譜が読めて演奏できるようになっただけで音楽になっていると勘違いしている人があまりに多いということ。

新人研修などの、技術研修にてらして考えてみた。

3/28 追記あり


目に見えやすい、評価基準っていうのは読符力だったりするわけだから、どうしても本来の音楽自体のことは数値化しにくいし見えにくい。

新人研修で技術のことを教えていても同じ事が起こっている。 教えたことはちゃんと覚えていてテストの結果がよくても、現場での仕事は全然できないっていうパターン。
技術知識、テストの点=楽譜、技術を現場で理解でき応用するちから=音楽 となぞられる。
楽譜が読めるだけでは音楽にならないのと同じように、テストの点がとれるだけでは、仕事にならない。

音楽などの芸術は、師匠について師匠のせなかやあり方を見て知識では伝わらないことを体で覚えていく部分が大きいわけで、それこそ伝統芸能の世襲制はそのためにあるわけです。
エンジニアの仕事になぞられるとやはり先輩の実際の仕事のやり方や姿勢や、考え方をみて身に付く部分は大きい。
では、研修でどうすればいいかだけでども、だからといってあきらめるのではなく2つのアプローチがあると思う。

1、師弟制度を作って、OJTとして、考え方や姿勢、応用のしかたを学ぶ。
2、研修では師弟制度で伝わる質を分析して、言葉にして伝える。

1のアプローチはやる前提で考えて、研修の質の向上という観点で2のアプローチを探求することはマイナスになることは無いはずなんで、考えてみたい。
まず知識研修で欠けていて、現場での師弟ではあるもの。

・できる人の考え方が伝わりやすい。
・応用のために「なぜそうなのか」を理解し考える必要がある。
・納期などの緊張感。

そこからの対策は...

・できる人の考え方が伝わりやすい。
  現場の体験談をなるべく多く聞かせる。
・応用のために「なぜそうなのか」を理解し考える必要がある。
  技術知識単位になぜそうなのかを説明するあるいは探求させる。
  応用例を作らせる。
  決定事項や指示には必ず、なぜそうなのかを丁寧に説明していく。

・納期などの緊張感。
  怖い進捗会議をやる(笑)

100%はのぞめない前提でも、ある程度の質の向上は行なえると思う。

3/28 追記:
補足すると、楽譜だけでは、音楽の体験そのものをすべて記録できているわけではないということ。
単純に演奏情報としてみても抜け落ちている情報は非常に多い。
グルーブ感みたいなものものそうだろう。
一番大きな抜ける情報はなにかというと、作曲家の意図する音楽的な「何故」この音なのかということだと思う。 最悪作曲家当人でさえ正確には再現できないかもしれない種類のもの、楽譜はもとより、そもそも言語化がむずかしい種類のもの。
あきらかに違う、そこらのバンドで聞かれる8ビートと神懸かりな8ビートの違いみたいなもの。 数値やタイミング的になほんとに数msecの違いでしか現れない、「普通」と「神懸かり」の違いのこと。

よのなかには、物事のとらえかたとして結果主義と根源主義の2つの考え方があるようなきがします。
結果主義に代表されるのは、例えば対症療法。 症状や検査結果が良ければ直ったとする考え方。
もう一方の根源主義では、病気が発生しうる理由を探す考え方。生活習慣であったり日頃からのその人の心の持ちようであったりとか、対人関係や職業の特性であったり、その原因のほうを見る考え方。 医療の分野ではプライマリーケアって言ってたりしますね。

幸い技術内容の一つ一つはそこまで深くなく、「何故」そうなのかっていうのは論理として単純だったりするわけで技術トピック自体に対しての根源のフォローは音楽に比べれば、格段に容易だと思う。 技術の事で言うと言語化がむずかしい領域は、仕事の足り組み方の姿勢と何故そうなのかという点だと思う。

もう一方の議論としてはAIの議論で良く出てくる、「われわれは、人間とおなじ反応を示すものに対して原理的に知能があるか無いかの区別はできない」というテーゼ。
これになぞられて、結果論としていい演奏ができていれば、その内部にある「何故」が本当にあるかどうかは推し量る事はできないとうこと。 現実問題として音楽には複雑かつ繊細な要素が多いので難しいとは思うが、言い換えればオリジナルの楽曲の意図「何故」がわからなくても、新しい「何故」を創造していることになっていると解釈できるかも知れない。
これはいい方の解釈。

技術のことでいうと、仕事の納期やテストの点が出来れば、派遣で売れるし建前的にはいいわけだけども、新しいことを提案したり、応用したりという力は「何故」が無ければ難しいように思う。 提案や、応用自体もテクニック化できればこのこと自体も「何故」があるかないかわからなくなってくるかも知れない
逆にそこまでできるなら、実質は問題ないわけだけども、どこかで大きな失敗をするリスクはあるかもしれない。

なにが言いたいかというと、言語化と形式化の限界はどうしてもあるだろうと言う点と、限界はあっても追求は止めるべきではないという点、その点を知ったうえで言語化が難しい師匠の性質考え方や「何故」をどうやって伝えていくかが重要ではないだろうかということです。



Posted: 土 - 3月 26, 2005 at 01:56 PM      
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